東京校の講義レポート

【平成25年10月27日(日)】 『松陰先生命日 ゆかりの地めぐり、幕末維新祭り』

2013/10/27
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●1日の流れ

9:20 十思公園集合(伝馬町牢屋敷跡、石町時の鐘)、朝礼

9:40 ゆかりの地の解説
・松陰読本朗読
・留魂録について
・松陰先生の最期について

10:00 松陰先生終焉の地碑の前で、黙祷
・アウトプット
・木村公紀先生、鳥越昇一郎先生によるコメント
・今元局長による総括
・記念撮影

10:30 小塚原回向院へ移動(松陰先生が最初に葬られた墓・南千住)

12:00 松下村塾學び館(松陰本舗)へ到着
・松陰神社・松陰先生のお墓(各自で)
・幕末維新祭り。シフトを組んで、
 學び館の案内、グッズの販売

19:00 閉館(大盛況のまま終了)
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●吉田松陰先生
吉田松陰先生が処刑された
小伝馬町の十思公園で、処刑が行われた10時に黙祷を捧げた。
先生の、誰よりも日本を想う気持ちに、敬服するばかりだった。
留魂録には弟子に向けて、「将来、大学を作るように」と書かれていた。
未来を見て、自分は命尽きても、弟子たちに想いを託したのだ。
心からの想いだったのだろう。

二十一回猛士の21回は弟子たちによって果たされたのだろうか?
松陰先生の意思は時代を越えて伝わり、それは現代の私たちも
引き継ぐべきだと思った。

少なくとも、ベンチャー大學が動いた。
小伝馬町で黙祷を捧げた、私たちは志を高く掲げて、行動し続けていきたい。

●學び館、大盛況
松下村塾學び館に信じられないくらいの方が来館してくださり、
見たこともない光景で、堪らなく嬉しくなった。
この日は幕末維新祭り。
入口での声かけの効果もあり、大盛況のまま終わった。

毎年お祭りに来られているある1人の方が、
「今年の祭りで変わったのは
松陰神社の銅像と、この學び館だ!」とおっしゃっていた。
もの凄い影響力だったのではないか!!
素直に嬉しかった。

自分の個展のチラシ配りをさせていただいたが、ほとんどの方に
受け取ってもらえた。
それは學び館が受け入れられたからだということが大きいだろう。
最初は消極的になってしまい、自分の個展について上手く
話せませんでしたが、だんだん伝えられるようになりました。
これからは恥じず、積極的に宣伝広めていきます。
個展はこれからが本番なので、準備を周到にしていきます。

From:佐藤洋一@東京校5期生(神奈川県出身・玉川大学卒)
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●吉田松陰先生ゆかりの地巡り
吉田松陰先生が亡くなられた地と始めに入れられたお墓(回向院)へ行った。
松陰先生が亡くなられた場所は静かな場所で、厳かな気持ちになった。

その場で松本さんに松陰先生がどういう経緯で捕らえられ、
処刑をされてしまったのか本の読み聞かせをしていただいた。
松陰先生は最後まで日本の将来と弟子の方々のことを気にされ、
自分のことは二の次だったとのことだ。
自分の役目を定め、すぐにできるやるべきことをしっかりやり、
最後にも意味を見いだしたからこそそのような心境に至ることが
できたのだろう。

自分はまだ社会の中での自分の役目をうまく見出だせていない。
自分が社会のために何ができるか考えて実行していく。

●松陰本舗のお手伝い
松陰本舗の店番のお手伝いをさせていただいた。

外で声を出し、大勢に呼び掛けすることは反応をいただいたり、
笑ってくださったりして楽しかった。
ただ、その声かけがワンパターンで、バリエーションが乏しかった。
パターンを決めて思考を止めるのではなく、工夫を凝らしたり
その場その場に応じて変えたりすることが大事だ。

また、個人の方へ声かけをすることがあまりできなかった。
大勢に呼び掛けしてもこっちを向いてそのままいかれる方が多く
おられ、こちらへ向いたときに話しかけると足を止めて
商品を見てくださることがあった。

From:牛島知之@東京校5期生(熊本県出身・熊本県立大学卒)
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●十思公園
松陰先生は弟子に思いを託した。
先生は日本を良くしたいと考えた結果
道半ばで処刑されてしまうが、
そのことを悲観するのではなく、
次につなげるために、自分の思いを綴った。
今の日本をより良くするために何ができるか
何かをしなければと感じた。

●小塚原回向院
墓の規模は、思っていたよりも狭く感じた。
しかし、腕の形をした墓や大きな石碑があり、
個性的なその人を表すお墓があり、
特に腕のお墓が個人的に、
慕われていた人だったのだろうと感じさせる
ものだった。

●維新祭り
松陰先生の命日と重なっていることも
あると思うが、人出が多く、神社では、
身動きも取れない場面もあった。
奇兵隊のパレードや松陰先生の芝居など、
どれも、面白く楽しめるものが多かった。
聞くところによると数年前には、
タレントやアイドルに依頼をして
来てもらっていたこともあったらしく、
今から来年の祭りが楽しみです。

From:高岸知広@東京校5期生(兵庫県出身・金沢学院大学卒)
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●松陰先生へ黙祷
十思公園にて松陰先生の最期を感じながら
黙祷をした。
松陰先生は最期の死にざままで立派だったそうだ。
それは思い残すことを残さず
できることをできる限りやったからなのだろう。
脱藩や黒船乗船など無茶であっても行い、
感謝は人に伝え、すべきことをきちんと行ったからなのだろう。
そういった方だからこそ思いを引き継ぐ人がいて
明治維新まで起こった。
松陰先生を知識でなく肌で少し感じることができた。

●小塚原回向院
唯一二十一回猛士と刻まれた墓のある小塚原回向院で
松陰先生に手を合わせた。

ここには他にも罪人として葬られた人たちの墓があり
そのなかに高橋お傳という人がいた。
この人は仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚』の中で
「毒婦」と呼ばれ、夫を毒殺したり男から強盗を働いたりした
女として描かれている。
しかし実際のところはそのいわれとは全く違うというのが真実のようだ。
お傳は上野国に生まれた女性で
19歳の時に高橋波之助という男と結婚した。
しかし波之助が病にかかった時に治療費を稼ぐために娼婦となるも
結局は助からず死んでしまう。

その後は、やくざ者の男と恋仲になるが
その男の借金を返すために
後藤吉蔵という男と金を借りる約束で一晩過ごすが
その約束を反故にされ、それによりお傳は後藤を殺して
しまったということだ。

そしてさらなる不幸として
この話を聴いた明治政府が貞節の大切さを説くための
道徳教育の題材としてお傳を「毒婦」に仕立て上げ、
仮名垣魯文に要請し『高橋阿伝夜叉譚』が作られたということだった。
調べた後何とも言えない悲しい気分になった。

●萩・世田谷幕末維新祭り
来場者数約800人、売上10万円を超すという
今までからは想像もできない結果になった。
お祭りということで
商店街は大勢の人であふれ返り
常に松陰本舗内も人がいる状況が絶えなかった。

昨年までこういった施設がなかったというのも大きいのだろう。
やはり現地だからこそお土産としても買う人が多かったのだろうし、
今後は口コミで広がる可能性も大きい。
出店場所というものがいかに大事かというのを強く感じた。
今回のイベントが大きな弾みになることが期待できる。

また教育に興味があるという方もいらっしゃったり
多くの方とお話しする機会があり
松陰先生、松下村塾塾生が
今でもいかに慕われているか、ということを感じた。

From:大森俊通@東京校5期生(東京都出身・琉球大学卒)
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