平成26年(2014)【3月9日(日)】 全国縦断遊学の旅 2日目

2日目。
五稜郭公園に向かう。
道なき道を行く五期生たち。
道は俺たちの後ろにできるものだ!

地元の方に教えていただいた、函館らーめん「かもめ」に立ち寄りました。

坂本龍馬記念館の理事林さんにお話しを聞きました。
約1時間ほどお話しをいただきました。ありがたいです。

護国神社に向かう途中です。
雪が吹雪いて来ました!
前が真っ白の中、雪を掻き分け向かっています!

周りが見えず、近くの方にお聞きし、ようやく護国神社にたどり着きました!
階段が真っ白で、山のように。

新島襄の銅像前に、命からがら到着。
雪で埋れてます!
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●函館歴史散策
函館で、戊辰戦争最後の戦いがあった五稜郭跡の公園とその周辺を探索した。
五稜郭の戦いへ10月に起こったとのことだったが、10月なら雪が
降っていてもおかしくない。しかも函館戦争は年を跨いでいるはず。
慣れていないはずの雪の中、東京から来てさほど時が経っていない中で
蝦夷地の制定を指揮したり、新政府軍に対し奮戦したというのは純粋にすごい。
今は激しい戦いとは真逆の、観光客が多い和やかな雰囲気となっているが、
土方歳三や中島三郎助の没地が五稜郭公園から少し離れた街中に
ひっそりとあり、当時の激戦の跡を僅かながら感じた。
また、坂本龍馬記念館館長の方と
以前、ベン大生が来た、ということで盛り上がった。
そして特別に1時間十分ほどお話をしていただいた。
お話の内容は坂本龍馬記念館が何故函館にあるのか、というお話から
始まり、現在のウクライナ情勢の原因は何なのかまで多岐に渡った。
先輩が下地を作ってくださっていたから、こんなにすんなりとお話を
してくださったのだろう。
先輩方の足跡を感じ、自分もしっかり学ぼうと意識を改めた。
坂本龍馬は北海道開拓を一人でもしたいと考えていたほど
北海道開拓へ強い思いを持っていたそうだ。
それは幕府が解体されることにより職を失う若い武士たちの
エネルギーを蝦夷地の開拓と防衛へ向けるという計画を立てていたためだ。
奇しくも幕府方の榎本武揚は大政奉還後に同じことを考え、失敗している。
北海道にまつわる不思議な縁を感じた。
また、龍馬は薩長同盟前に朝敵ということで武器の調達が困難だった
長州藩への武器の納品を薩摩藩にさせたり、薩摩藩への食料供給を
長州藩に任せるなどして雪溶けを計っていたそうだ。
恨みのある相手との仲介術、覚えておく。
●護国神社
雪で参道の階段が滑り台のような見た目になっていて、
吹雪が吹き付けてくるなか雪を踏みしめ参拝した。
中には第二次世界大戦時に本州から非常食を作るために連れてこられた
若者たちのことが書かれている碑がひっそりと建っていた。
そのようなことがあったなどまるで知らなかった。
詳しいことは書かれていなかったが、知るべき歴史はまだまだありそうだ。
また、護国神社内には函館戦争時の新政府軍のお墓があった。
護国神社の裏手にひっそりと建てられていたが、そこは厳かな
雰囲気で、大きな戦いがこの地であったということを意識させられた。
木からの落雪がひどく、寒さもあってあまり長居できなかったが、
インパクトはとても強かった。
From:牛島知之@東京校5期生(熊本県出身・熊本県立大学卒)
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たまたま、旅行ガイドの方に五稜郭のお話を聞くことができた。
五稜郭は星型になっており、武田斐三郎という適塾出身の方が設計された。
銅像には、頭が良くなると言われ多くの人が撫でられます。
その言葉通りで顔の部分だけが光り輝いており、どれだけの人が
撫でたのだろうか?と思うほどでした。
また函館は、適塾に関係する人が幾人が関わっていることを教えて頂きました。
適塾の門下生が戊辰戦争で敵味方に別れて戦っていることや、大鳥圭介、
高松凌雲は、箱館に立てこもって、箱館病院を開院後、敵味方の区別なく
負傷者の治療に務めた。
そして、武田斐三郎が五稜郭の設計の為に参考にした書籍を翻訳したのが、
大鳥圭介だというのは、なんとも不思議な因縁だと感じました。
今日、ここで、たまたまガイドの方と話せ、話を聞くことができたのも
また縁だとも感じ、運命の歯車というものはあるのかもしれないと
思える話でした。
●北海道坂本龍馬記念館
坂本龍馬は北海道を目指していた。
新しく国を開くと、理想と情熱を北海道に向けていたが、
船が沈没したり、北海道を開拓するための知識をよく知る人達が
亡くなってしまったりとで断念したらしい。
本州と海を挟んだ蝦夷地なら、独立国家として考えたのかも知れないと感じた。
身分差別を無くす為に動いていたと聞かされ、龍馬の時代の身分差別は
ひどいものだったとおっしゃられていり、
その点自分達、今の日本人は身分差別はほぼほぼ、なくなっている。
平等で平和な国づくりを目指して奔放していた、精神力と行動力を真似て、
自分も日本を洗濯したいと思えるほどの志を高く持ち、龍馬の名前を
弄ばないように心掛けます。
館長の林さんに政治の話もしてくださり、
目に見えるものだけを信じては駄目だと、木に例えて教えて頂いた。
多くの情報を集め、見えないが確かにある根っこの部分を想像・把握して、
正しい歴史認識や政治の事を考えるべきだと熱く語られた。
実際に、自分達が知れる情報は限られているとはいえ、
それに惑わされずに、考え予想して行くことを癖付けれるようにします。
●出世橋
志を持って世に出て欲しいという願いを込めて作ったそうですが、
ある中学生に話した所、出世出来るかなと渡りながら歩く友達を戻し、
意味が違うんだと話したという話をしていただいた。
実際にそういった中学生がいるだけで、自分達も負けてられない、
志を持って社会に出ていかなければならないと感じました。
●新政府軍のお墓
神社の奥を少し行ったところにあり、
ズラッと並んでおり、そこだけ何故か空気が明らかに違った。
何と無くだが、そこに戦い散った人達が、
そこにいるような気がして、
手を合わせ心からのご冥福を祈ることができた。
英君たる先祖のお陰で今の日本を過ごせているので、
決して忘れないようにし、恥ずかしくない行動を心掛けます。
From:佐藤洋一@東京校5期生(神奈川県出身・玉川大学卒)
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ゲストハウスを出発し最初に向かったのは
戊辰戦争の最後の舞台となった地、五稜郭である。
五稜郭が星形になっているのは
防衛に適した西洋の建築方法であるようだ。
その死角を埋めるために造設された半月堡を渡っていき、
公園となっている五稜郭の敷地のなかを歩くと
その敷地は非常に広いことがわかる。
松陰先生ともゆかりがある人物で
五稜郭の設計を手掛けた武田斐三郎の石碑もあった。
五稜郭タワーの一階フロアに行くと
土方歳三、武田斐三郎、榎本武揚の像があった。
函館戦争については人物名は知っていても
まだ勉強不足だ。
●土方歳三最後の地碑
五稜郭から函館駅方面へ戻り、土方歳三最後の地碑に行く。
この地にあった一本木関門から
馬に乗って戦地に繰り出したところ
縦断が腹部に当たり落馬、ほぼ即死だったそうだ。
新選組のころは鬼の副長と呼ばれたが
函館では母親のような優しさを持って
部下と接していたそうだ。
戦況が変わるとともに史実には語られない、
土方歳三の心境の変化があるのだと感じた。
●北海道坂本竜馬記念館
入場券を買おうとしたときに、
「大学の仲間と日本を縦断する旅をしています」
とお答えした所、日本ベンチャー大学の事を
覚えて下さっていた。
2年前、先輩方も縦断の旅で、この記念館に立ち寄ったようだ。
そのあとも丁寧にお話してくださり、
坂本龍馬が北海道に足を踏み入れはしなかったものの
その国防における重要性を早くから説いていたこと、
坂本龍馬の家系が北海道で続いていくことなどを
お話ししていただいた。
それだけでなく龍馬が船中八策を作るに至った
世界的な背景などもお話していただき、
竜馬に関することに留まらない世界情勢を踏まえた視点から
歴史を教えてくださった。
それも幕末だけでなく現在の問題にいたるまで、
なんと1時間近くも熱くお話ししてくださった。
話の中で、松陰先生に対する思いもお話してくださり
「人の心に火をつけるのが、本当の教育であり、
それができたのが吉田松陰」
など、現代の教育に必要なものまで考えを教えてくださった。
北海道坂本竜馬記念館から出る道にかけられた橋には
出世橋と名前が付けられており、
その意味は「ここで学んだことを活かし、世に出る」
とのことで、ただの資料館にとどまらない
記念館への熱い思いがあるのだそうだ。
思いもよらない出会いではあったが
非常に貴重な出会いであった。
From:大森俊通@東京校5期生(東京都出身・琉球大学卒)
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平成26年(2014)【3月8日(土)】 全国縦断遊学の旅 1日目

青森に到着しました!
雪が降っていますが、ここが全国縦断遊学の旅、出発点!
松陰先生の足跡を辿り、学んで参ります!

本州北の端、竜飛岬に来ました。
松陰先生の詩碑だけではなく、津軽海峡冬景色の石碑や砲台跡、
太宰の道など、たくさんありました。
荒れ狂う波を見ながら考える事はたくさんあるのでしょう。

竜飛岬、途中で撮った写真。
竜飛岬巡りが予定より早くできたので、函館入りを早める。
函館に向かう特急に乗り、青函トンネルを抜ける。


函館到着しました!
牛島君曰く、雪の感触がすごい!だそうです。
その後は、本日の宿泊先であるゲストハウスに到着。
2日間お世話になるゲストハウスのご主人にご挨拶をしました。
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松陰先生が日本の今後を考えたという本州北の端、竜飛岬へやって来た。
寒さと吹き飛ばされてしまいそうな強風で顔や手が痛くなり、
何かを考えるなど自分には到底できなかった。
だが、雄大な景色、断崖絶壁と荒れ狂う波を見ていると
神妙な気持ちになったのは確かだ。
ここで北を見ながら松陰先生は何を思ったのか?
砲台跡などあったが、そこに砲台があったとしてもおそらく
頼もしくは見えなかったのではないかと思う。
またゲストハウスオーナーの木村さんという方と起業などに
ついてお話しした。起業支援のサイトを教えていただいたり、
シェアハウスを始める際のコツなどを伺った。
若いときの経験や、自分で調べたこと、交渉などでとても安く
始めることができているそうだ。
若いうちに沢山の経験をすること、それは将来の財産になると感じた。
From:牛島知之@東京校5期生(熊本県出身・熊本県立大学卒)
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松陰先生も訪れたという、日本最北端の岬。
この地で、日本ベンチャー大學最後の研修がスタートした。
青森の海岸線ぞいは荒々しかった。
光が反射する雪景色とは対照的に、最果ての自然は重々しくて荘厳な印象だった。
この日は吹雪といっていいほど、雪が激しかった。
降りた三厩駅で雪国の趣深さを味わった。
岬へ行く途中のバスからは、そのような先端の地でも多くの住居が
立ち並ぶのが見えた。
雪かきをしている人もいた。
生活の匂いが感じられて、人間の様々な日常を想った。
頂上にある竜飛岬に近づくほど、自然の力は増していった。
「風の岬」と言われる竜飛岬は、常に強風が吹き荒れているので、
雪が積もらないのだそうだ。
頂上付近に着いた。
上から望める景色はまさしく絶景だった。
岬の天気は変わりやすく、晴れ間が覗いたり、また雪が舞ったりを
繰り返していて大変だったが、天辺で感じられた自然との対峙は
何物にも替え難いものだった。
巨大だった。
神々しかった。
過酷だからこそ、自分の生命を感じられた。
吹き飛ばされそうなほどの強風に、仲間たちと笑い合って、心底楽しかった。
これからこのかけがえのない仲間と日本を駆け回る。
さらに最も奥には、吉田松陰先生の詩碑があった。
今より数百倍過酷だったに違いない、松陰先生の旅の最終地。
そのとき海岸を見て感じたであろうことを、私たちは少しでも
感じることができただろうか。
海、岩、雲までもが強い力を発していて、活力が漲ってくるようだった。
日本を見る、知る。
この旅の意義は大きいと思う。
これから函館へ渡り、南は鹿児島まで徐々に縦断していく。
From:佐藤洋一@東京校5期生(神奈川県出身・玉川大学卒)
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雪の降る青森についただけで
何となく興奮した。
青森から三厩へ電車を乗り継ぎ、
竜飛埼灯台行きの巡回バスに乗る。
途中にあるみちのく松陰道には
時間の都合上いけなかったが
バスの運転手の方のご厚意で
場所を教えていただき、入り口だけバスの中から
見ることができた。そのままバスは進み、
山道を登って行くと、竜飛崎に辿り着いた。
そこは雪が積もる前に吹き飛ばされるほどの強風で
手や耳が痛くなるほど寒かった。
さらに移動して、竜飛崎の一番端まで行くと
一気に風が強くなった。
その風に耐えながら松陰先生の詩碑、青函トンネルじん肺の碑
などを見ると、寒さの中で日本のために命を燃やした人たちが
いたことを感じ、非常に感慨深かった。
現地で学び、肌で感じることは学びをより深くすると感じた。
そこから、スーパー白鳥号で青函トンネルを抜け
北海道木古内から電車で函館に到着した。
40分ほど雪の中を歩きゲストハウスに到着すると
木村さんというオーナーの方が迎えてくださった。
その方に経営のことや起業のことなど
色々ビジネスの話をして下さった。
「若いうちからいろいろなことに挑戦したほうがよい」
とご自身の体験したことも交えてお話してくださり、
私達の応援もしてくださった。
旅先での人との出会いは
貴重なものだと感じた。
これからもいろいろな方にお世話になるかもしれないが
そのご縁を大切にしていく。
From:大森俊通@東京校5期生(東京都出身・琉球大学卒)
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平成26年(2014)【3月1日(土)】 「鞄持ち商標登録を祝う会」お手伝い
●鞄持ちの深み
私は「鞄持ち」をして人生が変わった。
どうしようもない大学生だった私は、鞄持ちを通して
日本ベンチャー大學を知り、少しは変わることができたと思う。
本日、「鞄持ち採用・商標登録を祝う会」は、15年も続いてきた
山近社長の鞄持ちの、膨大な数のドラマと歴史を感じた。
歴代鞄持ち体験者の方々にはそれぞれにエピソードがあり、
現在こうした場に集まって、山近社長にお礼を伝える場面は深いものを感じた。
長く続けてこられたから生まれたことは多々あるだろう。
ゲストの行徳哲男先生は、山近社長を魅力的な方だ、と声を大にして
おっしゃっていた。
お忙しい行徳先生も、先約があったにもかかわらず、
知らず知らずこの会場に足が向いていたという。
人間は欠点も何もない、何の特徴もない人間は面白みがなく、
むしろ欠点がある人こそ魅力があるというお話をされていた。
煩悩や背徳に生きることも大切だ、ともおっしゃっていた。
オザキエンタープライズの尾崎真澄副社長はじめ、皆さんも
山近社長に惹かれているのがよくわかった。
そうでなければ、お祝い会にあれほどの人は集まらなかっただろう。
山近社長の凄いところは欠点があったとしても、それを隠さずに
裸での状態でいらっしゃることだろう。
私も見習う。
いつか、こうした会を開いたときに、人が集まってくれる人間に、私もなりたい。
人間力の真価が問われるときだ、と思った。
From:佐藤洋一@東京校5期生(神奈川県出身・玉川大学卒)
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「鞄持ち採用」と「鞄持ちインターンシップ」が商標登録され、
そのお祝い会に参加させていただいた。
お祝い会に経営者の方から学生までが東京の外からも来られており、
山近社長の人望の厚さを感じた。
山近社長が経営者の方からそれだけ愛されている理由の一端を行徳先生が話されていた。
それは欠点も包み隠さずさらけ出すことだそうだ。
そんな山近社長の元へ行徳先生も、気がついたら足が向いていたと言われている。
愛される人の要因のひとつを学ばせていただいた。
また、学生から見ると、自分達のことを気にかけてくださり、
全く知らなかった「社会」というものの一端を見せてくださり
生き抜くすべを教えてくださる恩師とも言える方だ。
学生、経営者の双方から広く愛され、なおかつ会社をしっかりと
経営なさるというのはとんでもないことだなと改めて感じた。
自分も、今後、山近社長から学び、ビッグな人になっていく。
From:牛島知之@東京校5期生(熊本県出身・熊本県立大学卒)
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「鞄持ち採用」の商標登録がついに実現し、
その祝賀会に参加できるのはとても嬉しかった。
もともと、鞄持ちをさせていただいたことがきっかけで、
ベンチャー大學にも入ることとなったので感慨深い。
メンバーもそうそうたる面面で、山近社長が今までどれだけの人を
魅了していたかがわかる、暖かいものだった。
今まで鞄持ちを行ってきた人達が多くきており、
それだけでも、15年という月日と継続することの大事さを感じる。
鞄持ちを採用の方法として最初に取り入れた、
オザキエンタープライズの尾崎真澄副社長はじめ、
多くの縁という糸がが集まって、
強固な紐となった結果がこの祝賀会であると感じる。
自分がこういった祝賀会を開いたときに、
来た人に心から感謝し、喜んでもらえるような人物になります。
●行徳先生
行徳先生は、もともと別に予定が入っていらっしゃったのに
気がつくと足がこちらに向かってきていたそうです。
お話の中には、欠点を魅力にするというものがあり、
人間は完璧になるのは難しく、
なったからと言って人がついてくるわけではないとおっしゃられていた。
自分の長所も短所も全て見せ、
人間味を出して、相手を魅了する
そういう行為がより大きな自分となり、器を広げることにもなる。
人は自分の器以上のことはできないので、
より大きなものにして行くためにも、
魅力的な人間を目指します。
From:高岸知広@東京校5期生(兵庫県出身・金沢学院大学卒)
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