【平成25年1月16日(水)】 『本質思考』 坂本善博先生(株式会社資産工学研究所 代表取締役社長)
●1日の流れ
9:00 朝礼、掃除
9:40 机の移動
10:00 坂本善博先生『本質思行』
ファシリテーター 渡辺寛高『自分が理想とする中小の会社』
森優太『ベン大5期生を勧誘する方法』
12:40 お昼休憩
13:45 新聞アウトプット
3面 『新興国 賃上げラッシュ
製造業の国際分業 岐路』
14:00 終礼

【常に意識しておく】
本日は講義の初めに行う、将来の宣言を言った後、
坂本先生から何点か質問を受けた。
自分が将来したいこと、この講義で何を学ぶかを予め自分で考えているにも関わらず、
パッと答えることができなかった。
普段から常に考えておれば、こんなことは起きなかったと感じた。
他の講義であっても、自分はこの講義で何を学ぶかを常に意識しておかなければならない。
そして、学んだことに対しても、常に意識することで、行動につながる。
そのために、ナレッジシートを活用するのだと改めて感じさせられた。
最低一週間に一回は、ナレッジシートに目を通す習慣をつける。
【事前に行う】
青のポストイットは本来、参加者からの黄色いポストイットをまとめてから作成する。
しかし、このナレッジファシリテーションを行う前から用意すると、
意見を出させやすいということを教えていただいた。
その為にはまず、事前に自分一人でファシリテーションを行ってみる必要がある。
事前に行うことにより、足りない部分、自分が欲しい部分を参加者に明確に伝えられる。
そして何より、自分では思いつかなかったことが発見しやすくなり、自分の成長にもつながる。
From:南出浩(大阪府出身、桃山学院大学卒)JVU4期生

『ナレッジシートを使って常に自分に課題を持つ事』
坂本先生の講義を通じ、今の自分に足りないものが
「自分の課題を知らない」事だと感じた。
自分の課題を分かっていないと、人は成長はできない。
そのために今後、"ベンチャー大學を通じて学ぶ事身に付ける事"ナレッジシートで常にチェックする。
もし自分の課題が分かっていれば、今の自分に何が足りないか分かる。
そうすれば最終目標である行動が変化する。
ナレッジシートをより活用して、自分の課題を常に持つ事をしていく。
『講義やアルバイトと繋げ、あらゆる事に積極的になる』
1ヶ月にどれ位ここを伸ばそうと「思う」事が大切だと感じた。
坂本先生は「ファシリテーションを集めただけではダメ」と言われる。
行動に繋げるには、上着の胸ポケットに入れ持ち歩いたり、
ベッドの脇に貼る事をする。
また1週間の終わりに、講師やアルバイトから身に付いた事を振り返りをする事も必要。
受け身の講義にならず、積極的に受けれる事に繋がると私は思う。
次回の講義まで、体が動くレベルの"体得"の項目をもっと
増やす事を目標とし報告しなければならない。
From:小林諒也(北海道出身、はこだて未来大学卒)JVU4期生
【平成25年1月15日(火)】 『築地市場見学』

●1日の流れ
6:00 築地市場駅集合
6:15 場内のお店巡り やじ満(シュウマイが美味しいお店)、
サンリ軒(井上電気の井上社長が好きなお店)
6:30 水神神社 海自発祥の地の石碑前で撮影
6:35 場内 最初に出来た吉野家で食事
7:45 各自築地内まわり、気付きを探す
8:15 気付きの報告
8:45 珈琲店綱兼やマグロの目玉の購入へ行く
9:30 小笠原島食堂 島寿司を頂く、質問会
(RINGSTARS編集長 泉井弘之介さん)
10:00 終礼

『築地市場研修』 講師:山近社長
本日は朝の6時から築地市場で研修を行いました。
朝が早く大変だったのですが、市場で働く人の活気がすごく元気をもらいました。
築地は海軍の発祥の地とも言われており、ペリー来航の時代まで
さかのぼるのですが歴史がある場所だなと感じました。
お店ばかりある中でも海軍の水神社があり歴史を
大切にされているんだなと感じます。
研修の中で40分自由に行動し気付きをアウトプットする時間があったのですが、
他の学生は面白い気付きがあったのですが、
自分はなかなかいい気付きを得られず悔しかったです。
ぜひもう一度リベンジしたです。
自分が悩んだり落ち込んでいるときに市場に行く社長もいるというお話に納得ができました。
活気があって元気がもらえるし様々な気付きができるのでいいなと感じました。
From:渡辺寛高(広島県出身、尾道大学卒)JVU4期生

【築地の魅力】
本日は山近社長とともに築地の町を歩いた。
これまで私は築地に何度か来たことがあったのだが、朝来るのは初めて。
まだ6時であるのにも関わらず、とても賑わっていた。
自由時間をいただき、初めて場内を歩いた。
山近社長の「築地は朝来るべきだ。」「築地にくると元気がもらえる。」
と言っていた意味がよくわかった。
場外は店が立ち並び、観光客も多くいる一方、場内に入るとそこはまさに戦場であった。
自分の店で販売するために、より鮮度の高い魚介類をより安く買おうとする客。
それに対し、他の店には負けじと鮮度と安さを訴える店側。
どちらにもこだわりというものが感じられ、引きをとらない。
こんな光景を目にするのは初めてであり、一人で興奮していた。
この自分たちで獲ってきたものを自分たちで販売するという形は商売の原点であり、
なにより営業に熱がはいる。
私はこの営業を見ていて、改めて販売する商品を自分が愛する大切さを学んだ。
こんな風景は他ではなかなか見れないだろう。
これが私が考える築地の最大の魅力である。
From:南出浩(大阪府出身、桃山学院大学卒)JVU4期生


今回は、山近社長と一緒に築地市場を見学しました。
朝6時に見学をスタートしました。
築地は朝から熱気と活気で満ち満ちていました!!
朝3時頃から築地で競りが始まりますので、僕たちが行った頃は、
競り落とされた鮪や鯛や貝を運ぶ輸送車が道を行き交っていました!
あまりにも輸送車が多いのでぶつかりそうになりながら歩きました。
ひやひや。
でもそれが築地の売りで、そんな状態が築地に活気をもたらしているとも言えます!
そんな築地の空気が好きで、東証一部上場企業である物語コーポレーションの社長は、
アイデア考えるとき行き詰まった時には築地に行かれるそうです!
超常連のようです。
僕も給料が入ったら【新宿-築地】の定期券を買います!
築地、おすすめです!!!!
今回の築地見学では、まず神社にお参りをしてスタートしました。
心を整えてからの朝のスタートは良いです。
言い訳を一切せず、見返りを期待せず、喜んで周りの方のお役に立ちます!
と宣言しました。
毎朝神社に行くことは出来ずとも、心の中で宣言して、1日をスタートします。
途中、自由時間を頂いたので、築地を歩き回りました。
築地で働かれている方々は一様に凛々しかったです。
変な言い方かもしれませんが、惚れました!
スピード、声、包丁裁き、表情、どれも勉強になるものばかりでした。
築地を知れて良かったです!
見たものを自分にも取り入れ、自分から築地の活気を放つ人間となります!
From:井浪康晴(京都府出身、鳥取大学卒)JVU4期生
【平成25年1月12日(土)】 『渋沢栄一史料館見学』

●1日の流れ
10:00 王子駅集合
飛鳥山公園に移動
10:05 朝礼
10:20 新聞アウトプット
1面「薬ネット販売解禁へ」
11面「LCC光と影 優遇する関空、課題多い成田」
13面「スターバックス6年ぶり高値圏」
11:00 昼休憩
12:00 渋沢栄一資料館 見学
渋沢資料館は、日本の近代経済社会の基盤をつくったと言われる、
渋沢栄一の事績と思想並びに栄一の生きた時代に関する資料を収集、保存、調査研究、展示し、
これに関する種々の事業を行っている。
展示は、「郷里にて」「幕臣となる」「維新政府の一員に」「実業界を築く」
「民間外交を担う」「社会・公共事業を推進」「栄一と家族たち」
「手紙にみる幅広い交流」「91年の生涯を終えて」の9つのテーマを設け、
それぞれに関する展示品が置かれている。
13:00 青淵文庫 見学
青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の80歳のお祝いと、
男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈した鉄筋コンクリートの建物。
1925(大正14)年の竣工で、栄一の書庫として、また 接客の場としても使用された。
渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで柏の葉をデザイ ンしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館。
13:30 晩香廬 見学
晩香廬(ばんこうろ)は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室。
1917(大正6)年の竣工で、丈夫な栗材を用いて丹念に作られ、暖 炉・薪入れ・火鉢などの調度品、
机・椅子などの家具にも、設計者の細やかな心遣いが見られる。
晩香廬は内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された。
13:50 アウトプット
14:20 終礼

『一経済人として、利益追求に留まらず近代化を成し遂げた偉人』
渋沢栄一は、実業家または時には大蔵省の官僚として様々な役職に就いた。
数々の会社興しへの携わりや、会社の在り方・国の在り方を考え変えてきている。
彼はただの一経済人ではないなと感じた。
一経済人なら拝金主義で、ただ闇雲に会社を作るだけだろう。
渋沢栄一は、本当の豊かな国作りとは何かとして、大小500に及ぶ会社を起こしたり、
貨幣制度や福祉への尽力、はたまた国の国際問題を憂い、
国際人との民間での交流まで行っている。
会社の在り方も考え、欧米式の株式会社という制度を受けれて、会社個々が繋がり
合い彼らの地位向上を考え経団連の設立をしている。
莫大な利益を生んだはずだが、批判などなく利益だけを追求するのは人の道に反して
いると行動した渋沢公に、世の経営者が「思想家としても行動家としても一流である」と高く賞賛している。
私も社会人もしくは経営者となるとき、1つの会社を利潤追求だけを目的としない。
渋沢公が考え行動した様に、全体を見た時の豊かな国の在り方を考えてからの、自社の
存在価値を明確にしたい。
『国が抱えるどんな大問題にも個人で立ち向かい変えた男』
渋沢栄一は実業家でありながら、国際問題にも足を踏み入れている。
日露戦争後の緊張下4度に渡たる渡米で、移民問題や満州問題で
関係が冷え込んだアメリカと関係改善をしている。
また海外の数々の著名人(蒋介石など)と会い、渋沢公は日本の「グランド・オールド・マン(偉大な老紳士)」
と呼ばれ世界でも親しみを今なお持たれている。
国が行っていながら中々問題に踏み切れないものに対し、人との交流を通じ問題に積極的に取り組んだ。
国にしか変えられないと思われるとても大きな問題に対しても、渋沢栄一は自分の哲学を持ち
一筋の希望を持って行われている。どんな大問題にも躊躇をせず行動と結果を残した、渋沢公
の勇敢さを自分の人生に今後活かしたい。
From:小林諒也(北海道出身、はこだて未来大学卒)JVU4期生
《渋沢栄一と下積み時代》
本日は、北区にある「渋沢史料館」で学びました。
渋沢史料館では、幕末から昭和にかけて生きた経済人・渋沢栄一について展示されています。
渋沢は、尊皇攘夷の志士、徳川家家臣を経て官僚・起業家となり、
今も残る多くの企業を設立するなど、日本経済の基礎を作りました。
渋沢栄一は多くの会社を作る傍ら、
福祉や教育などの社会活動や国際交流にも熱心に取り組みました。
その背景には、幼少・若いときの経験があったのではないかと、
史料館で学びながら感じました。
幼少の渋沢は論語をはじめとする古典を学びながら、
家業を手伝い、生の経済に触れていました。
後に「論語と算盤」という本を著したことからも、
人としてどうあるべきかということと、現実の経済活動の2つのことが、
一貫して渋沢の人生における軸としてあったと感じます。
私も、下積み時代がその後の人生を決めるということを意識し、
直接利益になることだけでなく、古典などを通して人生について考えるなど、
世の中について、人生について、幅広く学んでいきます。
From:野田貴生(山梨県出身、都留文科大学卒)JVU4期生
【平成25年1月11日(金)】 『ホームルーム』
●議事録
09:00 朝礼、掃除
09:35 新聞アウトプット
1面「TOEIC900点で100万円」
5面「相続税、都市部で負担増」
5面「原発予算で新事業追加」
11面「LCC光と影 格安が変えた人の流れ」
11:00 昼休憩
12:00 日本遊学の旅話し合い&個人面談
13:55 休憩
14:05 日本遊学の旅話し合い(続き)
・行く場所
3/7 函館
3/8 青森
3/9 秋田
3/10 仙台
3/11 福島
3/12 大阪
3/13 福岡
3/14 長崎→熊本
・担当
函館、北東北→小林、井浪
南東北→安斎
大阪→南出、野田
九州→森、松田、渡辺
15:00 終礼
『今後の進路について個人面談』
個人面談で、私の今後の進路の話合いをして頂いた。
3月はほとんど遊学の旅になるので、私は相当危機感を持って就活を進めないといけない。
普通の就活からは大分遅れる時期に行うので、ベン大生は
就活ルートから外れた就活の仕方をする事になる。
例えば、受けたい会社に次々電話をかけて採用枠があるか
聞くなど。採用活動に満足していない企業がまだあるという。
目標を立てて行動するのが良いとアドバイスを頂いたので、
私は次までに15社、行きたい会社と起業したいのであれば
それにまつわる会社を調べてリスト化してくる。
『ベン大遊学の旅のスケジュール組み』
遊学の旅は自分達でスケジュールや動き方を決めれる。
どこまで松蔭先生繋がりの場所に行けるかが重要だ。
自分達でスケジュールを組むと、地方であればあるほど
電車の接続の難しさが分かってくる。
事務局が行っている仕事の大変さを少し理解した。
だが自分達で作っていくスケジュールなので、どこを
まわろうか計画を立てるだけでもワクワクする。
この旅で、松陰先生の歩んだ道を肌で感じる充実した研修にしたい。
From:小林諒也(北海道出身、はこだて未来大学卒)JVU4期生
『ホームルーム』
今回は、3月に行う日本遊学の旅のルートを話し合い、決定しました。
ルートは、吉田松陰先生が回られたところを巡る事が前提なので、
持ち時間を考慮しつつ、行く場所を絞れば、スケジュールを組む事は難しい事はないと思っていたのですが、
想像以上に大変な作業でした。
自分の担当エリアは東北なのですが、東北は都会ではないので、
電車やバスの便が限られており、待ち時間が長くなったり、それに加えて、
施設から施設の移動時間が電車で3時間、4時間かかり、
1日でまわれる場所が1つになってしまうなど、想定外な事がたくさんでてきました。
また、東京では電車しか利用していなかった為、バスの乗り継ぎの方法にとても手間取りました。
一つ一つの単純な作業にも時間がかかりました。
作業終盤になると、当たり前かもしれませんが、バスのサイトの使い方や宿の探し方もだいぶスムーズになり、
慣れの大きさを体感しました。
やはり、量をこなすことは大切な教育の一つだなと感じました。
今回の体験は、いつも授業スケジュールを立てて下さる事務局の方の仕事の大変さを体感できる、
貴重な機会でした。
与えられている側にいてはわからない事がたくさんあります。
人と何かを協力して行うとき、一度体験すべきだと感じます。
From:井浪康晴(京都府出身、鳥取大学卒)JVU4期生
『遊学の旅』
本日はベン大最大のイベント、
日本遊学の旅についての打ち合わせ、調査を行った。
私にとっては2回目となるが、
昨年とは違った経験が出来ると考えると、今からとてもワクワクしている。
本日早速遊学の旅について話し始めたが、想像以上に調べることが多く、
電車の時間ひとつでも時間を取られてしまった。
昨年はリーダーに全てを一任していたので、計画を立てるのがいかに大変なのかを思い知った。
また、ベン大の講義に関しては普段は事務局の皆さんに計画を立てていただいている。
遠征の計画といい、イベントの計画といい、事務局に全てやってもらっていると考えると、
どんな思いでやっているのかは、想像以上のものになる。
また今回はこの企画のリーダーに任命されている。
昨年の経験を活かし、少しでもみんなのために顔晴るのは勿論、
いい方向に導く統率力が求められる。
昨年はリーダーがしっかりしていたので、非常に楽しい旅だったのを覚えている。
だからこそ、ベン大生として最初で最後のリーダーを務め上げ、
最高の遊学の旅にしていく。
From:安齋義仁(福島県出身、いわき明星大学卒)JVU院生
【平成25年1月8日(火)】 『松下村塾合宿2日目』

《吉田松陰先生》
合宿では、今も松下村塾の建物が残されている松陰神社を中心に、
吉田松陰先生と松下村塾について学びました。
実際に現地で学び、梅地和幸さんや松蔭神社の宮司さんから、
お話をしていただきました。
松陰先生については、これまで本などで学び、どのような方だったのか
ある程度はイメージができているつもりでしたが、
今回の合宿で自分の体験としての学びを得て、
それがより新しく、明確になりました。
私が松陰先生について学んで最も強く感じているることは、
松陰先生が本当に純粋な人だったということです。
先生は、親族や塾生といった自らに近い人々から、
藩や日本という大きなことまで、強い関心を持っておられました。
そして、それらをより良くするために何が必要なのかを考え、
相手が人であれば対等な目線から語り合い、
社会の仕組みであれば自らが行動されました。
また、おかしいと思ったことに対しては意義を唱え、
しなければならないと感じたことについては確実に行動に移す。
社会的な地位や名誉にはこだわらず、物事の道理を重視されました。
本当の優しさと、意志の強さを持ち、
しかも自分の利得を考えず、筋の通ったことを実行できる。
松陰先生のような人には、なろうと思ってなれるものではありませんが、
世の中が変わっていく源流となる人とはどのような人なのか、
松陰先生の事を学び、知ることができました。
今後も、松陰先生・松下村塾とその時代について学び続け、
社会の中で自分が何を成し遂げることができるのか、
そのような人になるために何を体得するべきか、考え続けていきます。
《松下村塾の塾生》
今回の合宿では、松下村塾の塾生たちの家やその跡地をまわり、
彼らについても学び、考えました。
塾生の中には、親の反対を受けても通い続けた人や、
吉田松陰先生に数日接しただけで入塾した人もいます。
後世に生きる私は、松陰先生や松下村塾に集まった塾生がどのような人々で、
何を成し遂げたのかを知っています。
後世の視点から考えると、松下村塾に出会った人々が松下村塾で学ぶことは、
その人々のためにも当然の選択だと思えます。
しかし、松下村塾を開いていた当時の吉田松陰先生は、
公的には藩の罪人という立場でした。
それでも、塾生は松陰先生の元で学びました。
松陰先生の人柄や塾の方針に惚れ込んだことが
塾生にとっての最大の理由だと思いますが、
社会的な地位にこだわらずに
自分が良いと感じた人や事を受け入れることは、簡単なことではありません。
学び、自分のするべきことを見つけ、それを実現したい。
そのためであれば、偏見を取り払うことができる。
そのような意欲のある塾生が集まったことも、
松下村塾が明治維新の源流となった理由の1つだったのではないかと感じました。
社会的な地位や権威、世の中の常識とされることにとらわれずに、
本当に自分にとって価値のあるものを求める姿勢が、
時代の転換期きは求められていることを学びました。
常に求め、そこからの出会いを大切にし、
自分の信念に基いて自分のものとしていきます。
《松下村塾の方針》
吉田松陰先生の松下村塾で、塾生たちがどのように学んでいたのか、
今回の合宿で学びました。
松陰先生は、自分が塾生たちに指導をするという立場に立たず、
塾生が学びたいこと、やりたいことを中心として、
自らも塾生たちと共に学んでいくという方針をとられていました。
この方針は、松陰先生が藩の牢獄に入れられていた時に、
希望のない囚人たちを元気づけるために、
囚人が得意とするものを他の囚人に教え合うようにした
ということがルーツになっています。
自分の得意な分野を人に教えることで、自分自身の存在価値を感じることができ、
それぞれの長所を活かすことで、
学ぶ人が、自分のするべきことを見つけられるようになります。
松陰先生も、最初から決まった方針を持っていたわけではなく、
ご自身の実体験から学び、試行錯誤の中で方針を考えられたために、
その結果として松下村塾が大きな意義のある場所になったことが分かりました。
他の人に何かを教えたり、学ぶということは今後も多くありますが、
松陰先生が松下村塾で実践されたことを手本とし、
自分で目標を定めて学び続け実行してみること、
一方通行ではなく共に学ぶという姿勢を大切にし、
自分で自分の道を見つけられるようにしていきます。
《歴史の行間を感じる》
今回の合宿では梅地和幸さんに、
吉田松陰先生と松下村塾について、詳しく解説をしていただきました。
梅地さんが仰ったことに、
「短い期間に開かれていたに過ぎない松下村塾で学んだ人々が、
なぜ維新という大きな歴史の流れの中で活躍することができたのか」
というものがあり、印象的でした。
その理由は、単に歴史上の事実を調べただけでは分かりません。
私は、今回の合宿を通して、
松陰先生の人柄と、教育についての方針を学びました。
松陰先生は本当に純粋な人であり、それが塾生にも伝わったであろうということ、
塾生が先生に頼り切りにならず自分で学び、
互いに高めあうことができる松下村塾の方針、
肩書きや立場にとらわれず、本当に価値のあるものを求めた塾生の意志。
これらが組み合わされたために、激動の時代の中で、
松陰先生の遺志を継いで世の中を変えたいと決意し、
そのために何をなすべきかを求め続け、行動していった人々が輩出されました。
私はこのことが、松下村塾が世の中を大転換する源流になった理由だと感じます。
推測ではありますが、現地に行き、実体験をすることで、この結論に至りました。
これは私が思ったことに過ぎず、歴史を学んだ一人ひとりが、それぞれ異なった体験をし、
異なった思いを持ち、異なった結論に達することが当然だと思います。
それでも、歴史的な事実を元に、自分の体験や思いを加えて、歴史の流れを想像し、
人一人ひとりが、自分なりの結論を出すことができるという
歴史を学ぶ新たな面白さを、今回の合宿で学ばせていただきました。
またこれは、歴史に限ったことではないと感じます。
物事の事実関係を正確に把握することは大切ですが、それだけではなく、
事実と事実の間にどのような作用が生じたのか、
体験し、当事者のことを思い、自分なりの結論を出すことが、
物事をほんとうに理解するために必要だということを意識し、今後学んでいきます。
From:野田貴生(山梨県出身、都留文科大学卒)JVU4期生


梅地さんと今元さんによる塾生の生家めぐりや野山獄の案内と、
松陰神社の宮司さんによる松下村塾内での講義により、今回はより先生の人物像に迫る濃い合宿となった。
梅地さんは、『そもそもこの萩の小さな小屋である松下村塾で
なぜあれほど多くの逸材を輩出出来たのか?』を常に考えていると言う。
この小さな萩は特殊な地である。徳川家によって京都からも
江戸からも遠い地という理由で毛利慶親が萩に封じ込められたと
いう歴史があり、その幕府に対する恨みや不満が民衆や志士にも
積もりに積もった結果だとも梅地さんは言われている。
しかし1番の逸材を生んだ要因は、若者に今の身分制度や幕府に疑問を持たせ
問題提起をし、とにかく知行合一が大事だと行動を奮起させた松陰先生に功績がある事は間違いない。
松陰先生の人物像や松下村塾の姿を学ばせて頂いた。逸材を育てた環境要因で、
1つは
・先生自身の人間的魅力(平等に接する、誰からも学ぶ)
2つ目は
・成長のための人を育てる仕組み(個人尊重、教え合い、自分達で結論を出す)
3つ目は
・どんな環境に置かれても行動する姿を見せる事
と感じた。
松陰先生の人間的魅力の1つは、誰に対してでも平等な事だと梅地さんは言われる。
例として、先生が外国船に乗り込むとき重之輔から弟子にして下さいと頼まれたが
「自分はその様な身分ではない。一緒に学ぼう」と言われている。
また松下村塾の学習スタイルは、先生が塾生に一方的に教えるのではなく、
お互いの知っている事や良い能力を教え合う事である。
実際先生が松下村塾で座って教えていた位置も、教壇からもっと端側にある。
松陰先生の功績は、松下村塾を作って身分制度を壊した事だという話も松陰神社の案内人から聞いた。
実際、萩城寄りは上級武士の生家が固まっており、そこに明倫館などの藩塾も多数ある。
しかし奇兵隊を作った高杉晋作も明倫館では本当の教育を受けれず困っていたとき、
歩いて40分程もかかる松下村塾を見付け夜こっそりと通っている。
生まれも育ちも関係なく、下級武士も魚屋の子供も、
上級武士も集まれる塾は松下村塾ただ一つだった。
そこで塾生は好きな時間に行き、夜な夜な日本の将来について議論したという。
人を身分や立場で決して差別せず、自分は偉いと思わず、塾生と一緒に学んでいく
という先生の姿勢が、自然と若者を集めたのではないだろうか。
年下だからとか立場の違いで人を判断せず、どんな方も先生となって貰い自分の糧
にする事を私も意識したい。
2つ目の成長のための人を育てる仕組みが整ってた事も大きな要因だ。
私は長州藩士が、自分達が世の中の役割を見つけ実行する事が出来て、その為の
教育が松下村塾で出来ていたと思った。
松下村塾で先生は"個人尊重し、一人一人の個性を伸ばす教育"を重んじられていた。
塾では会読や対独が中心で、各人に対し言葉や書簡・名字説を与える事で、自覚を
高めている。
"学ぶ事は自分で見つける"という教育も先生はやられている。
松陰先生は塾生にこれをやれと言わない。
塾生が「何を学んだらいいですか?」と聞いたら、先生は「君は何を学びたいのですか」と言った。
そこで聞いたらそれについて書かれた本を教えてくれた。という話も聞く。
"教え合い、自分達で結論を出す"やり方も尊重する。松下村塾では教師と塾生という立場はない。
各々塾生が得意な所があり、教え合って足りない所を補い合っている。
今の教育では親や教師は、子が世の中の役割を見つけさけようとしていない気がする。
学校では学生達に何を学ぶか選択させず、1人1人は世の中で新しい事をしようと情熱を持って通えない。
そして親は自分の子を褒めない。個性を見付け、それを伸ばしてあげない。
子供の自信を失わせてはしないか。
今は周囲の大人が子の長所をしっかり気付いてあげ、子に自信を持たせ自身の役割を
世の中で見付けられる支援が必要だ。同時に議論させ答えを自分で考えさせる事が必要と感じる。
3つ目は、先生が自分の成したい事はどんな環境に置かれても行動する姿を見せた事だ。
渡米に失敗し野山獄跡に収監されてからも、牢に入る囚人にすら先生は教育をし、
世の中に向け行動を起こしている。 そのどんな状況に置かれても情熱を持って行動する
姿に、塾生は突き動かされただろう。
何処ででもどの身分でも、世の中に対し行動は起こせると自信を持たせてくれる。
今後も萩での2日間で学んだ事を、ベンチャー大學の中で自分に掲げて行動に起こしてゆく。
From:小林諒也(北海道出身、はこだて未来大学卒)JVU4期生


・松下村塾では何を教えていたのか
松下村塾では、決まった教科書というのはなかった。
塾生が自分は何を学びたいのかということを考え、それを松下村塾で学んだ。
なので、吉田松陰先生も、必ずしも生徒が学びたいと思っていることに
精通しているわけではない。
松陰先生も生徒と一緒に学んでいくというスタンスであった。
松陰先生は、生徒にとって師であって、師でない。
共に学んでいく仲間という感覚が近かったのではないのだろうか。
そんな松陰先生の心構えや、スタンスを生徒は尊敬し、
松陰「先生」と呼んでいたのではなかろうか。
・高杉晋作が歩いた道程
高杉晋作が住んでいた城下町から、松下村塾までの道を実際に歩いた。
思っていたよりも遠く、これを継続的に晋作は歩いていたのかという気持ちになった。
その後の梅地さんのお話が印象的だった。
「あの道は、遠い道のりでも、晋作にとっては近い道だった」
どういうことかというと、晋作にとって、松下村塾に行くのは、
ものすごい楽しみであり、50分の道程なんかあっというまだったということである。
行く途中では、松陰先生にこういうことを聞いてみよう。自分の意見はこうだ。
ということを考え、帰りには、松下村塾で学んだことを今一度考えてみる。
そんなことを考えていたら、あれぐらいの距離は短いものである。
晋作にとっての、松下村塾の大切さを感じ取れた。
・松陰先生の人柄
郊外にある、あの小さな松下村塾に、2年間という短い期間で、
なぜ92名ものの塾生が集まったのか。
家族から見放され、野山獄に何年間も入れられていた囚人を
解放してあげることができたのか。
松陰先生は、人によって態度を変えるとかいうことをせず、平等に接し、
物事のありのままを受け入れ、自分が興味を持ったことに対しては、
とことん突き進む、といった人間だった。
そんな松陰先生と接した人々は、松陰先生に感化され、自分の道を見つけ、
変わっていった。
松陰先生にはそんな魅力があったのではないかと感じた。
ここで、先日松下政経塾に伺って、松下幸之助が大事にしていた、
「素直」というキーワードが、まさしく、松陰先生にあてはまるのではないかと思った。
素直に人々と接し、素直にまわりの現象をとらえ、素直に自分の気持ちに沿って
行動をする。
松陰先生は「素直」を実際に実践していた人であったのではないか。
私自身も、「素直」を磨いていく。
From:松田崇義(千葉県出身、慶應義塾大学卒)JVU4期生

今まで同様、今回の研修でも、沢山の方にお世話になりました。
山近社長、梅地様、上田宮司、日本ベンチャー大學事務局の方々、
日本ベンチャー大學生、女将さん他多数。
一人では感じることが出来ない体験を、皆様のお陰ですることが出来ました。
今、胸が熱くなっています。
とても素敵な方々と研修を受けることができ、幸せです。
今思います。本当に出会いによって人生は確実に変わる!!
一生のお付き合いをさせて頂きたいと思う方々ばかりです。
●吉田松陰先生の一番の魅力とは。
今回の研修で、梅地様が僕達に何度も投げ掛けられた質問があります。それは、
どうして松下村塾からは、約2年という短期間で、多くの偉人が輩出されたのか。
その答えを、是非見つけて帰ってほしいという事でした。
自分の答えとしては、松陰先生の塾生への強烈な愛故だと思いました。
松陰先生は、塾生の人物表を残しておられたそうで、今回の研修では、伊藤博文への人物表を上田宮司から紹介頂きました。
内容は、
『才能もないし、学もない。性格は素直でよろしいが、華がない。
僕、すこぶるこれを愛す。』
僕、すこぶるこれを愛す。
松陰先生は、全ての塾生を愛しておられました。
愛することで、相手のいい部分は自ずと見えてきます。
また、教育的観点から見れば、愛を受け取っている塾生は、松陰先生のどんな言葉も前向きに解釈します。
これがどれほど重要か。どれだけ成長が早いか。
松陰先生の教育のベースにある愛が、松下村塾を偉大なものにしたのではないかと思います。
●大切な事は、どう生きるべきか、を問い続けること。
松陰先生は、『学問は、人間とは何かを学ぶこと』とされています。
なので、講義の中心は、日本人としてどう生きるべきか、人としてどう生きるべきか、であったそうです。
この問いに向かい合い続けることこそが、『読み、書き、算盤、兵術』、を最大限活かすことに繋がると強く感じます。
士規七則という名の文書があります。これは、松陰先生が野山獄において執筆したものを、
叔父の玉木文之進の添削を経て成ったものです。
士規七則は、野山獄の中で、松陰先生が、武士の武士たる者の生き方について思索を深められ、
その過程で発想されました。士規七則には、次のような記述があります。
士道を確立するために心がけるべきは、死ぬまで努力を惜しまない事。
死してようやく終わる。言葉は簡潔であるが、意味は広く深い。
意思固く我慢強く、決断力があり思いきりよく行動する事、これ以外には何もない。
どう生きるべきかのヒントが溢れている文書だと感じます。
2日間の松下村塾研修で、志が新たになりました。
公に生きる。
目指すべきもの、大切にすべきものを体に染み込ませる事が出来ました。
ありがとうございました。
From:井浪康晴(京都府出身、鳥取大学卒)JVU4期生

『高杉晋作の辿った道』
今年の研修では
高杉晋作が松下村塾に行くときに
親の目を盗んで辿ったとされる道を歩いたが、
去年にはないプログラムだったので、新たな発見となるものだと感じた。
それも、私語は一切禁止で、さらに、1メートルぐらい間隔をあけて
当時を感じながら辿るものにもなった。
歩きながらだと、どんな気持ちで通っていたのか当然ながら考えることができた。
高杉晋作は元々通っていた藩校から松下村塾に変えてでも行くということは
通常の武士では、まずありえないことだ。
それほどの志が大きかったことに今の私たちには改めてすごい存在であると考えた。
ちなみに、私もかつては親に黙ってベン大に通っていた。
だが、それとはあくまでまったくの別物だ。
私が歩いた40分の間に日本のことを相当考えられたかを思うととてもかなわない。
ここで歩いた時間を絶対に忘れず、無駄にせず、社会でも活かしていく。
『松下村塾』
松下村塾というところは、
様々なすごい人が一大決心をしたということでも有名な場所である。
今の方たちの闘志が火をつけられたのは、
松陰先生の教育があったからということには違いない。
教えていたことは、主に学び方だったので、
学んだことを、どう実践していくのかは自分次第だと教え、
塾生全員のやる気にも火がついていたことが分かる。
また、松陰先生の考え方にも時代を変えたヒントを感じた。
当時は学ぶ人の身分が問われた時代の中で、
教えていた松陰先生は藩士だけど、塾生を全く差別することがなかった。
牢獄に投獄されていたときに、人には必ず何かしらの才能があることを学び、
それを伸ばせば国を変える力にもできるという発想の転換にもなったのだ。
国を守るのは武士しかいないのは、思い上がりだという
映画での松陰先生の台詞を思い出した。
今後出てくる人というのは、今までの固定概念にとらわれず、
その時代におかしいと思われることでも
まずやってみることを意識し、行動していく。
『JVU全国会議』
東京校、完全に負けている。この一言でしか現状を書けない。
特に、積極性の点で分校よりも劣っていると感じた。
質問時やスピーチ希望時の手を挙げる早さ、
分校生のレベルが格段に上がっていることを痛感した。
それと同時に、分校との差が相当広がってきたなと
このままではいけないと危機感を感じた
また全国会議内で、藤本社長からの言葉にも考えさせられた。
私の中で「院生」というキーワードが、大きな課題だと確信した。
これに関しては、私がその立場である。
本来、ベン大は1年で卒業しないといけないのに、
2年目に突入させてもらっているのが現状だ。
みんなより1年長く在籍しているが、
偉いのではないことを誰よりも自覚しなければならない。
院生になったことで、周りの方からの視線が変わったことも自覚している。
分校生との差にしても、院生にしても、
今の自分に何ができるかを必死に考えないといけない。
全校生と一緒に学べるチャンスは知覧しかない。
その時までに遅れを死に物狂いで取り戻し、最高の状態で知覧入りをしたい。
また、日本遊学の旅ではリーダーになっているので、
絶対に後悔しないような行動をし、
ただのごろつきから、本当のリーダーになり、
最後の締めくくりをよいものにする。
From:安齋義仁(福島県出身、いわき明星大学卒)JVU院生