平成26年(2014)【3月11日(火)】 全国縦断遊学の旅 4日目 東北被災地巡業

朝の気仙沼横丁に来ました。
綺麗になってきているように見える気仙沼ですが、
震災前と後では全く活気が違うようです。

朝の気仙沼横丁で、蟹の専門店をしているお店の方のお話を聞けました。
震災当時、気仙沼にいて、避難はしたものの、津波と一緒に
炎上した船が目の前に迫ってきたそうです。
直接火の被害は受けなかったものの
避難した場所の周囲が燃え、
救助されるのに3日かかったそうです。
防潮堤を作るか否かなど、地元の方ならではのお話を聞けました。
考えさせられました。

建物がまるごと流された跡がありました。
全壊した建物の姿を見ると
どうしてもやりきれない気持ちになりましたが
この日宿泊した漫画喫茶の店主が言うには
「この辺りも二階くらいまで浸水した。
建物は残ったけど、全壊じゃないから補助なんかも受けられない。
中途半端に残ったのもそれなりに困ったよ」と。
被災した人の思いや考えは複雑だと感じました。

気仙沼横丁近くの港を移動中です。
フェリーも発進しておりました。
これだけ民家の近くに水があるということは
当時の震災で非常に強い勢いの水が大量に押し寄せてきたのでしょう。
そう思うとみんな黙ってしまいました。

名取市閖上中学校の写真です。
宮城県閖上市では、911人もの方が犠牲に。
この閖上中学校でも多くの方が亡くなられました。
近くの指定避難所である公民館で
「ここはあぶない。閖上中学校に逃げろ」
との誘導に従った人たちが、中学校にたどり着く前に
津波に流されて亡くなったそうです。
津波の高さは3.2メートル。
公民館に残った数十人は生き残ったそうです。
学校も浸水した所、地震で倒壊した所など
荒れ果てた状態でした。

閖上での写真。
屋上から外を見てみると
その閑散とした光景に驚きました。
閖上中学校から
公民館と海岸を望みながら
黙祷を捧げ、閖上中学校を後にしました。
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●閖上中学校にて、被災者のご家族の挨拶
3年が経ち、世間では少しずつ昔のこと、
節目の年と言われているが、
自分達にとっては、まだ3年、これから4年、5年と続いていくと
悲痛な声で等々と喋られていた。
その声を聴いていると、
もしも自分が阪神淡路大震災で
こんなにも悲観に暮れさせたのだろうか、
自分が今生きていることに感謝するとともに、
無性に、両親へ何かしてあげたいという想いが、
胸の内からこみ上げてきました。
●旧閖上中学校について
ある方が、ここを残すか、残さないかを考えてくださいと
言われていた。
残すでも残さないでも、考えて自分の意見を持ってくださいと
訴えられていた。
自分は震災は悲しい、辛いとは考えていても、
被害があった場所を残すか残さないかは、
そこの人が考えるべきだと思い、思考を放棄してきた。
それは、自分には関係のない事だと考えていた事と同じ意味だ。
いつの間にか、他人事として考えていたことに衝撃を受けた。
From:高岸知広@東京校5期生(兵庫県出身・金沢学院大学卒)
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●気仙沼
自分の目で見てみたかった被災地を、ちょうど3年経過した、
3.11の日に見ることができた。
まずは気仙沼を訪ねた。
気仙沼横丁では、震災を体験した方の貴重なお話をうかがうことができた。
津波に浸水したときに現場にいらっしゃって、燃える船が近づいて
きたことや、そのときの油の匂いなどのお話には生々しい恐怖を感じた。
気仙沼も震災前と今では、活気が全く違うそうだ。
前の晩、この街を歩いて、綺麗だが静かでもの寂しいという印象だった。
一夜明けて日に照らされた街を歩くと、家が根こそぎ無くなって
しまっている地が多くあるのがわかった。
綺麗に見えたのは瓦礫などが撤去されたからのようだ。
港町の淋しさが悲しかった。
市民と国の、復興に対する考え方のギャップもあるようだ。
防潮堤を作るか否かで意見が分かれているという話も聞いた。
まだまだ復興には問題があることを切に実感した。
これからさらに衝撃の光景を見ることになる。
●奇跡の一本松
陸前高田の光景が凄いというお話を聞いたので、次の目的地に
行く前に、奇跡の一本松に立ち寄った。
惨憺たる現状だった。
そこにあったはずの建物はほとんどが無くなってしまって、
土ごと抉られた未開発の土地のみが広がっている。
建物がないため、強い風が吹きつける。
上空にはモノレールのような、ジェットコースターのようなものが、
長く伸びていた。
聞くと、高台に住宅を作るのに土を運ぶための、仮設レールだそうだ。
それは凄いのだが、住宅建築はまだまだ進んでいないという。
空にひょろりと伸びる奇跡の一本松は確かに奇跡だったように見えた。
しかしそんな一本松も根っこの部分が腐り、今は人間の手でなんとか
持ち直したという。
被災地も奇跡を待っていられない。
人々が具体的な行動をしていかなければ、被災地から目を背ける人は
どんどん増えるだろう。
私も力添えをしていきたい。
●閖上中学校
悲劇となった閖上中学校の追悼イベントに参加し、その屋上で黙祷を捧げた。
眼下には見渡す限り、荒地が広がっていた。
少し離れている海岸まで、どの角度からでも見渡せる。
中学校から、歩いて5分ほどの小高い丘まで灯篭が伸びていた。
今は壊されてしまったが、そこには二階建ての公民館があったそうだ。
津波が押し寄せて来たとき、公民館にいては危ないと思って、
さらに高い閖上中学校に避難しようとした。
しかし間に合わず、その途中で津波に飲まれてしまった人々がいる。
閖上中学校の生徒も14人が犠牲になったようだ。
公民館に残っていれば助かったかもしれなかった。
中学校内部は荒れ果てていて、学生の無念さが伝わってくる。
教室の黒板には、ふたたび訪れた生徒や卒業生が寄せ書きをしていた。
「閖上、大好き」
「閖上、最高!!」
「できるなら中学時代に戻りたい」
当たり前の日常があっという間に奪われる。
かけがえのない仲間が突然近くにいなくなる。
自分の学生生活を思い出して、閖上中学校と照らし合わせると、
胸が張り裂けそうになった。
今まで震災のことを真剣に考えてこなかった。
実感していなかったのだ。
日本を襲った現代の自然による脅威がどういうものか、
胸を打ちつけるように感じることができた。
私に何ができるだろうか。
できることを始める。
From:佐藤洋一@東京校5期生(神奈川県出身・玉川大学卒)
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