【10月27日】吉田松陰先生命日『歴史現地教育学』
本日は松陰先生の処刑跡地である十思公園に9時半に集合
処刑された時刻の10時に黙祷しました。
同じ時刻の百五十年前、松陰先生はそのとき何を思い、最後の瞬間を迎えられたのでしょうか?
同じ場所同じ時刻で百五十年前を振り返り、心境を振り返りました。
後生に松陰先生が信じたように弟子たちは維新を駆け巡りました。
しかしあの当時の弟子達は山口の一介の人でしかない。
その先が見えない中あの堂々とした境地を迎える凄さは計り知ることは出来ませんでした。
あの場に立川気付いたのは
国を誰よりも想い誰よりも弟子達を信じていたからこそ、出来たことではないだろうか。
最後に松陰神社に行き
百五十年年たち
今の世を松陰先生はどのように思っているのでしょうかと感じた1日でした。
日本ベンチャー大學1期生 後藤虎南
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10月27日の今日は、吉田松陰先生の命日であり、今年は没後150周年に当たる。安政6年(1859)10月27日、わが国の将来を真剣に考え、身をもって実行して
いった松陰先生は、現在の十思公園の地(昔の刑場跡地)で終焉を迎えた。齢三十歳で
あった。
十思公園
⇒昔の刑場跡地。午前10時頃に、鐘の合図と共に刑が執行されたためにその名がついた。その鐘は今でも公園に残っている。150年前の今日、午前10時ごろの鐘の合図と共に、松陰先生の処刑は執行された。
本日の天候は晴天、透き通るような青空に、爽やかな風が吹いていた。心までも、晴れやかになる天候であった。150年前の今日この瞬間も、同じような天候だったのだろうと感じた。松陰先生の心も、今日の天候のように晴れ晴れとした気持ちで、当日の朝を迎えたのだろう。
影響力
⇒松蔭先生の思想は、多くの人々に影響を与えた。高い志を常に持っていたこと、溢れんばかりの情熱を持ち続けていたことが根本にあるのだろう。そして何よりも松陰先生が自ら学問し、行動することを実践していったからこそ、共に学んだ弟子たちは多くの影響を受け、のちの世まで語り継がれていったのだろう。
価値のある死
⇒人はいつか、必ず死ぬ時が来る。「男児たるもの、どう生き、どう死んだらよいのか」という問いに、松陰先生は「死んで志が残るのであれば、死ねば良い。悔いが残るのであれば、生きてそれをやればよい。」と答えた。その言葉通り、松陰先生の志は今も残り、いき続けている。松陰先生の死は、大きな価値のあるものだったのではないかと感じた。
魂を残す
⇒松陰先生は、死ぬ間際に「留魂録」という遺書を残した。自分が死んでも、国を思う気持ちを永久に残したいと願って書いたものだ。松陰先生は、国をもっと良い方向へ導いていきたいという思いを持ち続けていた。遺書と共に、魂は残り、弟子たちに受け継がれていった。今日の日本には、自分の命と引き換えにしてまで国を良くしていこうという人は、ほとんどいないのではないかと感じた。松陰先生の魂を、感じて欲しいものである。
回向院
⇒昔の刑場跡地。無縁仏や罪を犯した方々の墓が多くある。松陰先生のご遺体は、刑の執行後はここに収められていた。
松蔭神社
⇒松陰先生の死を知った弟子たちが、松陰先生の遺体を掘り起こし、現在の松蔭神社の地にひっそりと祭った。弟子たちに助けられ、この地で供養された松陰先生は、涙が出るほど嬉しかったのではないかと感じた。弟子たちは、自分が死んだ後も松陰先生のそばにいたいと、皆が松陰先生の墓の近くに自分の墓を立てた。こんなにも愛され続けた人はいないのではないかと思う。
松陰先生は、短い生涯で多くの有能の志士を得た。その多くの人たちとの絆を得たことが、一番の幸せであったのではないかと感じた。
草奔崛起
⇒松陰先生は、身分に関わりなく、草むらのようなところにいる人々が立ち上がって、体制を変えていくべきだと述べている。
日本ベンチャー大學は雑草集団。踏まれても、へこたれず何度も立ち上がって、強くなっていく。辛い体験をしたぶん、強くなれる。もっと伸びて、成長することができる。雑草魂の精神を忘れずに、日本を変える人材になることを目標としていきます。
日本ベンチャー大學1期生 河田修一