【4・16(土)】歴史現地講座『適塾』
《緒方洪庵先生~適塾~》
・幕末における洋学研究の第一人者。
多くの蘭学(オランダ)を翻訳し、著書を残した。
また大阪「適塾」という学塾を開いた。
『近代ヨーロッパの先進的な科学技術やものの考え方を
取り入れて、日本国家の近代化の大事業を果たす人財を輩出する』
事を目的として、日本全国、合計1000名以上にも達した。
【緒方洪庵先生】…
1、幕末という、外交のみならず国内事情までもが不安定な時にも
関わらず、蘭学を全面的に取り入れるというスタンスは、
現代の、特に企業が行う教育方針と似るところがある。
⇒歴史を遡って学んでるにも関わらず、
これから必要とされる教育方針を学ぶことが出来た。
歴史に学ぶと、物事の原理原則・本質に気付きやすい。
2、「ヅーフ辞書」という蘭和辞書に塾生は食い入るように集まった。
現代とは違い、ネットで単語を調べる事もできない当時。
普段目にすることのない外国語を読み取ろうとする姿勢が、
塾生のその後の活躍にも繋がったのだと感じた。
※(塾生が集まった部屋は「ヅーフ部屋」とまで名付けられた。)
⇒志ある人が、長い時間ひたすら歩き、大坂に学びに来た、
その数1000人以上というエピソード聴くと、頭が下がる想いである。
最近では、分からない漢字があると無視して読んでいたが、
分からない漢字・単語があれば“逐一調べる"ということを癖付ける。
3、適々斎(=洪庵先生)の意味である
『自分の心に適しするものを適として楽しむ』は、
「~しなくちゃいけない」という受け身ではなく、
自分で取り組む能動的な姿勢で学ぶ事を教えられていた。
⇒この「適々」という思想があったからこそ、適塾の指導要項第1条が、
“人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本業とす"
となったのではないだろうか。
まさに「十のやりたいことを一つに決める心」=“志"である。
【適塾】…
1、大阪の淀屋橋というオフィス街のビルに囲まれるように
ひっそりと建っている。
江戸時代の建物が残っているのは大変貴重である。
私は秋頃、はじめて適塾の存在を知り、行こうとしたら
改修工事が行われていた。
適塾自体、何度も改修工事が行われてきており、
大阪の残したい文化としての力の入れようも感じた。
⇒「いつまでも残したい。」と思えるものがある事は
素晴らしいことである。
約150年経つ今でもこうして洪庵先生に学ぶことが出来るのは、
脈々と人々の想いが積み重なってきたからである。
大切にしたいと思う心を行動に移す。
2、適塾内は、至る所段差がひどく、
高齢者の方にはとてもじゃないが、「無理だろう…」と
思ってしまうほど階段も急であった。
しかし、そんな中でも庭園のスペースはきちんと確保されており、
松下村塾と比べても広々とした風通しの良い建物であった。
⇒どんな窮屈な中でも庭園を持つというのは、
当時の人にとっては当たり前とも言えるくらい必要な
ものだったのだろうか…?
どんな切り詰めた中でも一瞬の安らぎを感じる事は、
心のゆとりを持つという事でも忘れずにいたい。
――
総括
――
今回の講義では、大阪特有の精神文化を感じ取る事が
出来たことが一番の収穫であった。
適塾内にある記述の中で、
学びに来た塾生の動機に
「大阪という町は自由で、社会的にも特質である…」
という風な記述が多かった。
私は「阪大医学部は凄い」と周りが言う環境の中で育ったのだが
その謎のルーツを辿る事が出来た今回。
自分の生まれ故郷でもある大阪の文化、
学問に対する姿勢に触れる事ができた。
また、最後のアウトプットの時間を
長く取った事によって、
適塾に皆で尋ねたという体験をより濃いものにできた。
日本ベンチャー大學大阪校1期生 川辺聖弥(大阪商業大学)
「教室から適塾まで」
初顔会わせから、既にご一緒した事がある方々まで、幅広く関わりあうことが出来たと思います。
全体の流れから、新聞のアウトプット、おあしも運動や掃除の割り振りなどをしましたが、全員が真剣に取り組めていたと思います。
新聞のアウトプットでは、事前に日経新聞を読み、ある程度の大まかな内容を把握していたお陰か、スムーズにどの記事をアウトプットするかを決められたので、ある程度自分の意見や疑問点を述べる事が出来ました。
それに対して、JVU大阪校の皆様の意見・見解を伺い、なるほど確かに。と取り込んでいける内容が多く、見方の違いでここまで考え方が広がるのかと驚きました。
大阪校の皆さんのアウトプットも、記事に、この内容はこうだだからこうするべきだと私は考えます。と的確なコメントを述べており、レベルの高いアウトプットになっていたと思います。
今回の新聞アウトプットは、自分の見解を述べ、周りの意見を取り入れ、総括によってまとめて行くような形で終わりました。
今後は、内容によっては意見を戦わせる必要もあるかもしれないと感じました。
私は声が大きい方では無いので、おあしも運動では、少し声が嗄れそうになりました。複式呼吸が大事ですね。
「おす」
「おはようございます」
「ありがとうございます」
「失礼致します」
「申し訳ございません」
「今日も1日よろしくお願いします」
この言葉だけで全体の士気が上がった気がしました。
まだまだ分離礼は息が合わず、バラバラでしたが、今後、少しづつ合わしていければと思います。
掃除では窓拭きを担当させていただきました。
バイト先で6年近く窓を拭いているからか、窓を見て時間的にピカピカとまではいかなくても全力で拭くぞと意気込んでしまい、8階から落ちそうになりながら拭いてきました。
他の方々と会話し、連携しながら掃除するべきだったのですが、黙々と拭き続けてしまい、失敗したなぁと思いました。
「緒方洪庵の私塾-適塾-」
実は来たのは始めてで、凄く期待していました。
中に入ると、当時の光景がどのような物だったのかということがわかるジオラマや当時使われていた物があり、不思議と引き込まれていきました。
私が、「適塾」内を歩いていて感じたことは、当時の生徒達と現代を生きる学生達とのやる気の違いでした。
それはヅーフ小屋や、当時の生徒達の生活に生々しく刻み込まれているように思います。
『扶氏医戒之略』から「医の世に生活するは人の為のみ、おのれの為にあらず」という言葉があるのですが、これは医療に関わらず、人が何かをしようとする際の、理想の考え方だと感じます。
緒方洪庵先生は名を章、字を公裁、号を適々斎だそうですが、短歌を章と名で残しています。
のちのよの 闇のためにも 焚きのこせ
ふくる夜川の 瀬々の篝火 章
未来は分からないけれど、後世に語り継いでいく光を絶やしてはならないのだということを伝えたかったのだと思います。
塾徒部屋の畳からは狭くても寄せ合いながら協力して生きて行く大切さを感じます。
町医者番付表など、まるで相撲のような格付けがあり、競い合いの精神も大切にし、床の間の壁の塗りなおしからは、適塾のある場所の重要性や何度も繰り返し使う、日本人らしい物を大切にする心を垣間見ました。
塾徒たちは、資料を模範するのに、ヅーフ部屋にある辞書を調べ物をするために、奪い合うように使っていたそうです。
そして、人に教わる事無く、自分で考え、解説をつけて、塾生同士で互いに学力を戦わすことを誇りにしていた。
今の学生には中々無い、力強い根性だと思います。
模範するということの大切さを含め、見習うべき点であり、狭くても不便でも、やる気によっては何処でも最高の環境に変えられるのだと教えられました。
勉学に打ち込むその反面、柱への刀傷など、当時の若者らしい勇ましさも持ち合わせている。
このような二面性は、今の自分に必要なことだと思います。
気持ちの切り替えが出来るようにならねばと思います。
緒方洪庵先生の「適塾」を訪れて、何かをやりぬいて行く大切さを教えられた気がしました。
緒方洪庵先生は医療でしたが、何かをやりぬく事によって、周りに認められ、更なる人との関係を持つ事によって、更にやりぬくための足がけになって行くのだと感じました。
日本ベンチャー大學大阪校1期生 住田 欣哉(大阪産業大学)