平成24年7月7日(土) 「歴史・文化・伝統学」 『後藤是山記念館、水前寺成趣園、ジェーンズ邸』
2012/07/07 19:42:18
コメント (0)
①今日の議事録
・ラジオ体操、環境整備、朝礼
・新聞アウトプット
・歴史散策(後藤是山記念館、水前寺成趣園、ジェーンズ邸)
・終礼
②講義の気づき
・福岡の祇園山笠まつりが今年も開催され、今年で771回目とのこと。
また、開催中はきゅうりを参加者は食べない習慣がある。
→祭とは代々受け継がれ、様々な意味を込めて地域おこしのように開催されている。
<後藤是山記念館>
・後藤是山の生家は昭和2年の建物と思えないほど綺麗で、
庭には徳富蘇峰から贈られたイチョウなど草木が綺麗に咲き、手入れされていた。
→保存も管理も行き届いていて日本家屋は涼しかった。
それほど熊本に是生は影響を与えゆかりがある人物。
・大分出身だが、熊本の新聞記者で25年勤め、退職後も熊本に残り俳句や詠み、我流を貫いた。
→中央(東京)との関わりをあまり持たなかった。よってあまり有名ではない。とにかく一人わが道を行く。
・与謝晶子夫妻をはじめ多くの方を熊本に来た際に案内した。
竪山南風とは有名になる前から才能を見出し、プッシュしていた。
→人と人との交流を大切にしていた。
・この記念館は是山先生が昭和61年まで生きていたため、
レプリカではなく本物の展示物が数多く残っていた。
<水前寺成趣園>
・東海道五十三次を表現したように、
葛飾北斎の作品によくある富士山があり綺麗で、落ち着いた場所。
・細川忠利公、細川藤孝公の銅像があり、忠利公は公園の創設者として、
そして宮本武蔵を熊本に招き客分として余生を熊本で送らせた。
武蔵の五輪の書などにより肥後の武道は飛躍した。
→剣道も熊本は強いためこのなごりが残っているのかもしれない。
・細川藤孝公は肥後家初代であり、
和歌や能楽も一流で文武両道に優れた人であった。
→200年続いた江戸幕府の礎を築いた。
<ジェーンズ邸>
・ジェーンズは熊本にも薩長に負けないくらいの学力をつけ、熊本から政治家に
なるものを輩出し、日本を担う人物になってほしいという目標を持って来熊された。
・ジェーンズの思いと異なり、キリスト教の布教を宣誓し、
当時はキリスト教を認めていなかったこともあり、洋学校は5年で閉校になった。
・洋学校は日本で初の男女共学で学んだ施設であり、
ジェーンズは男性に対して自分を育ててくれた
母親が自分より能力が劣っているかと問い、
男女に能力の差がないことを教えた。
・洋学校が閉校された後は現在の同志社に編入し、
教育、宗教などのリーダーとして多くの学生が誕生した。
・佐野常民
→西南戦争で敵味方関係なく救護する博愛社を説立、
現在の日本赤十字社の創設者である。
ジェーンズ邸の二階でこの博愛社の設立を願い出た場所である。
③全体の感想
本日の歴史散策でどんどん熊本の偉人の繋がりが分かってきました。
今回訪れた3か所はすべて初めてで、
それぞれの場所で館長のお話を聞かせて頂くことができました。
自分で情報を掴みに行き、現地の空気を感じ、
これからも感性を磨いていきます。
From:内山瑛美(熊本県立大学4年)@JVU熊本校1期生
・後藤是山の文化人ネットワーク
→与謝野晶子とは短歌の師弟関係。
与謝野夫妻を天草や阿蘇を案内うることにより交流していた。
交流ネットワークの広さに驚いた
・参拝の仕方
→1.鳥居をくぐる前に一礼、左側を通る
2.真中は神様の通り道と言われており通らないようにする
3.手水舎で手と口を清める。口は手水舎につけない、
4.2礼2拍手の前に軽く会釈。手を合わせる時は右手を少し下にする
5.お願いではなく誓いをする、名前と住所を言う。
神様に感謝しありがとうございますという。
・ジェーンズ邸の授業はすべて英語、ついてこれなければ退学
→明治4年に開設されたにもかかわらず、
こんなにも学ぶ意識が強い人が居たことに驚いた。
・日本初の男女共学
→女性が学んでいたことで、男性が嫌な顔をしたり、離れて授業を受けていた。
そのことを気にしない図太さと学ぶ意欲を見習いたい。
本日は新聞アウトプット後、後藤是山記念館、水前寺公園、
ジェーンズ邸を散策しました。
天気にも恵まれ、気持ちよく散策することができました。
またベン大東京校事務局の田中さんともご一緒させて頂き、
色々とお話を伺えて楽しく学ぶことが出来ました。
本日の歴史散策で熊本の良い所を再発見できましたし、ジェーンズ邸の館長様が
小学5年時の担任の先生だというハプニングもあり、世の中は狭いと感じました。
From:森田耕司(北九州市立大学大学院修士1年)@JVU熊本校1期生
・稲荷神社や出水神社、銅像などがあった。
→由来が不明だったり、初めて聞く人もおられたり、
勉強不足だなと思ったし、現地に来たから気づけたこと。
あと、華族初の戦死者の方の名前を度忘れし、
このキーワードでは名前が出ず、調べられない。
メモしておかなければ。
・見て回って本当に綺麗に整備されてるなと感じた。
芝生もしっかり刈ってあり、水も澄んでいた。
ごみも(記憶している限り)見当たらなかった。
→きめ細やかな整備の結果だなと感じた。
隠れた苦労と努力があるんだろうな。
実際水辺の植木を綺麗に刈られていた。
・ジェーンズ邸で、授業はすべて英語で行い、優秀な子以外は
すべて退学という厳しい教育を10~15歳の子供が受けていた。
→ 自分の小中学生時代は退学なんて考える必要もなかったし、
高校大学でも、そうそうあることではなかった。
教育水準がいまと違いすぎるなと感じたし、
それでも食いついていく意識の高い子どもがいたんだなと感心。
一番遠くは岩手から来られていたとのこと。
自分も負けてられない。
・初の男女共学学校。
→5年程度しかなかったとはいえすごいこと。
内部から反発もあったようだが、それをなだめて続けたことはすごい。
そして、女性陣は必死にされていたようで刺激になっていたのかもと感じる。
・日赤発祥の地
→日赤が日本では熊本生まれで、西南戦争が元だったことは知っていたが、
ジェーンズ邸にできたことは知らなかった。
どちらの軍にも平等に治療を施したとのことだが、反発もあったはず。
そこをはねのけての活動は並大抵ではできないだろう。
それでもできることが"志"なのかなと感じる。
・当時日本ではあまりなかったパンや牛乳、牛肉を食べたりした。
→このほか暖炉など当時としては珍しいものがあり、
見学者もたくさんいたとのこと。
新しい風を入れるという点で大きな意味があったのかなと感じる。
パンなど麦を石臼ですって小麦粉を手に入れていたとのこと。
・海外から野菜の種を入れ、近所にも配っていた。
→自分だけではなく周りにも気を使っていたとのことか。
これとパン、牛乳、牛肉などで、
周辺の栄養状態は飛躍的に回復していったとのこと。
すごいなと感じる。
全体の感想
ジェーンズ邸で、意識の高い学生の雰囲気を少しだけだが感じた。
英語のわからない学生と、日本語のわからない先生との授業で、
大学では学ぶことがない、と言い切れるほどの勉強。
今の自分とは比べ物にならない。
From:牛島知之(熊本県立大学4年) @JVU熊本校1期生